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平成最後のイースターに







安らぎとくつろぎのなかで
ただ、
いのりとさんびで過ごした。






すべてを委ね
こころの中の言葉を
神さまに話し、
対話をたくさんした。




日曜日はイースター、
復活祭であり

その前日は
世界中の教会は
暗闇といのりを大切に過ごす。


キリストが十字架で死なれ
陰府にくだられている
とされる 時。


そして よみがえらた。
復活祭。





普段
わたしは 
計画や 目標 
また 願いによって
うごく。


しかし
復活祭前の
土日 2日間の連続やすみは
すべての計画を捨てた。




ピアノの先生
主婦
傍におき、

ただ、
しずかに 祈りに身を置いた。



最初は 不安もあった。
お仕事は今日はない。
すべきことがない。


ああ、
わたしは
することがある、ということが
支えになって
日々を送っていたんだな、
とわかる。




次第にも
その感覚に慣れてきた。


すると
「先生」「家庭の妻」という
わたしの立ち位置からの目ではなく


神さまの目は

素の
わたし自身を
素の
生徒さんを

見ておられることを
感じ始めていた。






あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は、
みなに仕える者になりなさい。




そして
なぜか
聖書の箇所にある
この言葉が
しずかに響きはじめてきた。



えらくなりたいわけでない。
それとも、なりたいの?
みえないところの 
隠れた想いがあるのかしら。







そんな 不思議な感覚を
手のひらに乗せて
神さまの愛のなかで
こころが照らされる。


そのうち
イエス様が
わたしに語りたかったこと。

相手の美しさを
神の目で見て

その美しさを
よろこぶものとなりなさい。

そのことが
仕えるということだよ、
わたしに
仰りたいのではないのかしら、と
思えてきた。




レッスンのおやすみに
ピアノから完全に離れて
ひとりの 「ひと」
として
日常に身を置いた時間。






たしかに
役割として
わたしは
ピアノを上達に導く先生であるけれど、


それ以上に

神さまは
ピアノ、というものを介して

おひとり おひとりに
永遠に繋がる
変わらない 
なにかを与えよう、と
なさっているのが
感じられてきた。




レッスンのある
日常では
なかなか
気づけないことだった。




 
神の教えは完全で
魂を生きかえらせ
その  さとしは かわらず
こころに知恵をもたらす

だれが
自分のあやまちを
知り尽くすことができようか。

かくれた罪から
わたしを清めてください。

高ぶる者に
支配されることがないように
あなたの しもべを
守ってください。

わたしが汚れることなく
大きなとがを 
避けることができるように。

神よ
わたしの力 わたしの贖い主
わたしの ことばと 行いが
あなたの よろこびとなるように。

旧約聖書 詩篇 8章



今日は
個人的な日記になってしまいましたね。
みなさまには
読みづらい文面だったかもしれません。
おゆるしください。

記録として残させてください。



☆私は20歳の大学2年のクリスマスに
大学の寮の側のカトリック教会、
カテドラル大聖堂で
洗礼を受けたクリスチャンです。

信仰は
しずかな
わたしの隠された ささえです。







さいたま市緑区/浦和区ピアノ教室
まえだやえこ