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弾くことは 生きること



さいたま市は
久々に雨が降った。

大地が潤う。

木々の 幹 
そして 根は
きっと
このときを 待ち望んでいただろう。



水曜日の夜は
おとなの生徒さんが続く。


シューマンのソナタに
ベートーヴェンのソナタ。





わたしは
ほんの少しだけ離れた場所で
自らの楽譜を見ながら
生徒さんの演奏を聴く。

すると
客観的に 
よく見えてくるから不思議だ。



弾けていても
なにかが ほしい。
なにか は
なにか。



ときには
わたしが代わりに弾いてみて
その感覚で
伝えたいことが 
はっきりしてくる。


「感情を あえて いれないで弾くの。
   通り過ぎる というのでもなく
   まるで
   心音みたいに 
   経過していくみたいに。」


そう 
語りながら
さらに 感じられてきて
伝える。

「例えばね、
    なにを感じているかを
    話してみてと言われたら
    つらい感じ。

    でも、
    感じているままに
    その場にいられる
    そんな 雰囲気の中だと
    
    心の深みで 
    さらに  
    じんわり 真実を感じられる

    そんな感覚。 どう?わかるかな。

    だから
    あえて 感情を入れずに
    ここは弾いてみて。」


すると
おとは さらりと 前へ進むが
共感のぬくもりは
聴く心の深みで
感じる弾き方になった。


そう  そう。

その感じがほしかった。




こんなことを
思いがけずに 話して
わたし自身が
音から 神秘を教わるような気が
いつも するのだ。





音楽は
生きること そのもの だと思う。


弾くことは
弾くために弾くだけではなく、

弾くなかで
自分の感覚を知り、

その感覚の記憶を
手放していくことでもあるように
最近思っている。


たとえば

「わたしったら
   ここの弾き方
   どんくさいわあ、」
と ふと湧き思うとき、
小さく自分のこころは傷つく。


生徒さんも
このちいさな傷つく感覚を味わいながら
練習しているのだろうか。

練習とは
ちいさな傷つく連続のように
感じる場合があるものだ。

しかし、
そんな感覚 
とらわれずに 夢中でやろうよ。
その領域を越えて行くときに
広いところに入っていけるし、
その喜びの世界へ入れるのだから!

と 
体験で知っているので
弾く。



でも
ちいさな痛みは 確かにあった。


ところが、


練習は
もっと 
素晴らしい 価値に満ちていることが
このところ
どんどんわかってきた。



こういうことだ。

その
負のように感じる感情こそ  にも
価値がある、ということ!

たとえば

「ああ、わたし どんくさい なんて
   思っちゃった。
   この思い  
   どこから来るかわからないけど
   痛いなあ。
   音の愛に浸るために弾いているのに
   痛むこと は 違うよね。

   さあ、天に返そう。
   ごめんね。
   こんな風に感じちゃって。
   音の世界を愛しています。
   こんな思いを見せてくれたことに
   ありがとう✨」

弾きながら
こんな思いを  ふと呟いてみた。
すると
なんと
不思議なことに
こころが透きとおって
ひろやかになったのだ!


そこで思った。

私たちは
知らず知らずのうちに
無意識に
体験した感覚や
決めつけ があるんだな、と。


それが 重荷になり
前に進めないことって
あるな。

進めても、
その時感じた痛みをないかのように
行いに集中することって多いな。



というわけで




「弾く」ことは
自分の 感情にも気づくことができ、

気づかないうちに自然にしている
「否定したり評価したりする」
その感覚を
手放していく プロセスも
培っていける
わかってきた。



すると

生徒さんが 
うまくいかなくて
苦い思いをしていることも
大切な機会だ、
と さらりと思うようになってきた。



たとえ負の感情であっても
感じられれば感じられるほどに
それを手放していけて、
さらに


音楽の愛の深さを知っていける。

愛は
どこまでも 計り知れないものだと
きづいていける。





しあわせは
プラスに見えるような
「薔薇色」なこと だけではなく

痛みや
傷を感じながらも
それらを かき抱き
天に返していくことで 味わえる
なんともいえない
空にされていくような
自由な心を味わえることも
ひとつの形なのだ。


音楽は
どこまでも 深い。

そして
その深さは
すべての ひとに
開かれている。

招かれている。