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手放すごとに与えられてきた奇跡

この連休
久々に
カウンセリングセミナーに
参加している。


私の生き方を
根本から変えた学び。

5月下旬には
拠点地の  米沢へ行く。


まさか、
再び学ぶとは
思っていなかった。

しかし、
こころの故郷に
改めて招かれたのだと思う。


専門の道を志すなかで
うまく弾くことの意味が
わからなくなっていった。

弾く意味を
知りたかった。

なぜ弾くのか。
なぜ
良い演奏を目指すために
毎日膨大な時間を費やすのか。

しかし、

どこにも  だれにも
内面的な
わたしの腑に落ちる回答は
なかった。



わたしは
答えを得ることができた。

その上、
ピアノを弾くことが
わたしの願いを超えて
彼(音楽)の願いだと
受け取っている。

その想いへ
注がれ行き着くまで
様々な葛藤があった。

弾けなくなったこともあった。


今、たとえ
ピアノを取り去られても
生きられるだろう、
とも感じている。


それ以上に美しいこと。

たとえ弾けなくとも  
歌が  響きが
わたしの中に住まっておられるから。

この
気づきを与えてくれたのが、
だった。


音楽の願いが
我が願いでありたい、
と思いはじめたころから、
徐々に硬い心が解放されてきた。

練習にしがみつかなくなったが、
前よりずっと
ピアノに向き合うようになった。

また
学生のころから憧れてきた
ベヒシュタインが
願っていた時期より随分早くに 
与えられた。


しかし
このピアノへの握るような執着心は
なぜか ない。

生徒さんが
よろこんで弾いていることが
うれしい。

もちろん
わたしも 弾けて うれしい。


とにかく穏やかだ。

わたしの中にあるのは
一言で表すと
限りない感謝だ。



彼が(音楽)
わたしに
与えてくださったことに対する
感謝だ。


願いが湧くごとに
委ねて手放してきた。

握らず委ね、手放すほどに、
彼(音)は 
もてなしのような よろこびを
与えるようになった。




もはや、
うまいとか うまくないとか
そんな価値観はなくなった。

ただ、

彼(音の世界)だけに
自分のすべてを捧げたい、
と思っている。


なぜなら、
彼(音の世界)が、
わたしの存在を
いのちを
広いところに置かれ、
永遠に続くよろこびへ、
音を通して
伝え続けてくれているからだ。


昨日はスクールの1日目。

授業の終了直後、
このスクールへの
長年の感謝を込めて、

即興と「なぐさめ」
を演奏させてもらった。

このいのちより美しい
彼(音楽)に
すべてを捧げた。

いつもと同じように
あたたかさで満たされ、
そして、
深い感謝に包まれた。